愛犬が年老いていくという絶対的に逃れられないことについて

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日常の1ページ(体験談)

愛犬家、だったかずです。今日、とてもお年寄りのワンコを散歩させている人を見ました。思い出したのは、一昨年の年末に死んでしまった愛犬のこと。
かつて、僕が拾って我が家にやって来た愛犬。犬を飼うにあたって、父と母は少年の僕に2つの約束をさせました。しかし、もう1つ、約束に足しておいて欲しかったことがありました。

3つめの約束

それは、「いつかは死んでいなくなってしまう」ということ。それを覚悟しておくように。という約束があったら完璧でした。まあでも、家族で犬を飼うというのは父と母にとっても初めてだったので、仕方ないんですけどね。 

ちなみに、2つの約束とは、①ご飯や散歩の世話を責任持ってすることと、②心から可愛がってあげること、という2つでした。約束事というより、“飼う条件”という方が正しかったですかね。

そうして僕は、小6から社会人になるまで、ご飯も1日2回、散歩も1日1回、どんなに部活や仕事で疲れていても連れて行っていました。途中、県外の大学に行っている間は父がやってくれていましたが。
大変で、面倒だなと思うときもそりゃありましたが、玄関を開けるとかわいい愛犬がいるということは幸せな光景でした。

 

愛犬がいなくなった朝

しかし、僕がきちんと覚悟できていなかったのは、先にも書いたとおり、「いつかは死んでいなくなってしまう」ということでした。僕が社会人4年目ほどになったとき、だんだん耳が遠くなってきました。名前を呼んでも反応がなくなってきたのです。
 
それからは、まさに1年が過ぎるごとに老化が目立ってきました。目が白く濁る白内障になってしまうと、水の皿が足元にあってもわからず、そこに足を突っ込んでしまいます。

また、あんなに大興奮でダッシュし続けた散歩も、行きたがらなくなりました。

年老いていく愛犬を日に日に実感するのは、とてもつらいことでした。どうしても元気だったころの姿を重ねてしまうのです。

そして、一昨年の年末のある日、朝のご飯をあげようと外に出たところ、息を引き取っているのに気づきました。

大好きだった高齢犬用のちょっといいご飯、きちんと盛りつけて用意してきたのに、もうそのご飯は食べてはくれませんでした。あのときの悲しみは何とも表現できませんね。

犬が一生懸命生きて僕たちに教えてくれること

それでも、17年がんばって生きてくれた愛犬。僕が11歳のときから28歳まで、人生をともに生きてくれました。

いつかは死んでいなくなってしまうこと。その覚悟を、子犬だった愛犬をおおはしゃぎで拾って来た僕は持っていませんでした。

大人になっていた僕は、愛犬の死を受け入れることができましたが、それでも“玄関を開けても愛犬がいない”という映像は、本当にいなくなってしまうまでつきませんでした。

でも、愛犬を育てながら自分も一緒に育ってきたことは、僕という人間を作るのに大きな要素になっています。子どものころにペットを飼い、自分で世話をして、最期を看取るという経験は、他では得られない経験です。

もし、僕の子どもが生まれて(今では息子がいます!)、成長して、「犬を飼いたい」と言うときが来たら、

①ご飯や散歩の世話を責任持ってすること、②心から可愛がってあげること、そして最後に、③いつかは年老いて、いなくなってしまうことを覚悟しておくこと。

この3つが守れることを条件にしよう。
 

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