Mr.Children「himawari」ひまわりの君と邪な僕。2人は対極のようで実は1つ

歌詞から生き方を学ぶ、かずの『歌詞学』の時間です!
今日の教材はMr.Childrenの「himawari」。
映画『君の膵臓を食べたい』の主題歌にもなったこの曲。「暗がり」「ひまわり」「邪」「透き通る」単語だけを拾っても奥深さのある歌詞です。この歌詞から、人生の奥深さ、世界観の違いと一致を感じたいと思います。

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全体の解釈

まずはこの曲の歌詞から読み取れる世界観の全体像から書いていきます。
【歌詞全文はコチラ参照】

やはり、メロディー的にも歌詞的にも強いインパクトを感じるのが「暗がりで咲いてるひまわり」という歌詞ですよね。これがやはりメインテーマだと思うし、この歌詞の世界観を表現しています。

そして、『君の膵臓を食べたい』の物語が背景にあること。僕はこの原作も読んでいないし、映画も観ていないので、ストーリーを先ほどまで知りませんでした。ですが、この記事を書くにつけて、あらすじくらいは知らないといけんと、こちらのサイトさんを参照させてもらいました。

過酷な運命を背負っている“君”と、そんな君に恋をしている“僕”。
だけど、君の方が真っ直ぐで、ひまわりのように生きている。それに対して僕は、諦めたり、妥協したり、誰かに合わせたりして邪に生きてる。

そんな対極の存在であるような“君”と“僕”ですが、僕(かず)は、この2人(2つ)は実はよく似ている存在、あるいはもう同じ1つのものではないかと妄想解釈しています。

 

歌詞の深読み

さて、ここからがかずの歌詞学の真骨頂。妄想解釈での歌詞の深読みです。歌詞をピックアップして書いていきます。

優しさの死に化粧で
笑ってるように見せてる

桜井さんの歌詞はどれもそうですが、この曲も比喩(メタファー)が神がかっています。だって、もうこの出だしの2行で「死が迫る女性がそれでも強く明るく生きている」という物語の大前提がつかめてしまうのですから。

さらに、“僕”が、“君”の笑っている顔は「優しさの死に化粧」だとわかってしまっているという。なんとも切ない重たさのある物語であることがこの歌詞だけでわかります。

 

暗がりで咲いてるひまわり
嵐が去ったあとの陽だまり

サビの部分の歌詞ですね。暗がりの中でだけど、しっかりと咲き誇るひまわり。これは“君”の強さや生き方を表しているのはわかりやすいです。

僕がどういう意味かな?と思っていたのは後半の「嵐が去ったあとの陽だまり」の方。でも最近、これは「泣いたり(=嵐)」、「笑ったり(=陽だまり)」する“君”のことを表しているのだろうと思って聞いています。

暗がりでしっかり咲いているように見えても、本当は泣いているときもある。それがわかるときが“僕”にはあるのでしょう。でも一方で、強い彼女は心から笑うこともできる。
そんな君に恋してた。のでしょう。

 

思い出の角砂糖を
涙が溶かしちゃわぬように
僕の命と共に尽きるように
ちょっとずつ舐めて生きるから

この歌詞、2番の出だしの歌詞ですが、1番の出だしの歌詞を上回る比喩だと思います。頭を殴られるような感動を覚えました。

一言で意味を言ってしまえば、「君の思い出を死ぬまで忘れないでいたい」ということですが、こんな素敵な表現があるものでしょうか。

思い出の角砂糖を溶かしてしまうのは涙だと言っています。「泣いてしまうことで、君との思い出を悲しいものにしたくない」という“僕”の想いも描かれていますよね。
さらに、ちょっとずつ舐めれば角砂糖は小さくなります。思い出も、生きて行くうちにどうしても小さくなっていってしまいますよね。それでも、命が尽きるまでちゃんと持っていたい。そして一緒に尽きるんだという“僕”の心情が読み取れる、素晴らしい歌詞です。

 

違う誰かの肌触り
格好つけたりはにかんだり
そんな僕が果たしているんだろうか?

だけど、長い人生。“君”がいなくなってしまってから、僕は生き続ける。その中で別の女性に恋をする可能性について“僕”が考えている場面の歌詞です。

でも、最後の「そんな僕が果たしているんだろうか?」では、それが想像できない、信じられないという気持ちが書かれています。
ちなみに、「いるんだろうか?」を「要るんだろうか?」という意味で取ることもできるな…と、僕は考えるのです。

 

邪(よこしま)にただ生きてる

これが“僕”の“僕”の生き方に対する評価です。暗がりで咲いてるひまわりのような“君”みたいな人がいる一方で、僕は諦めたり、妥協したり、誰かに合わせたりして生きている。
死期の迫る運命にいる“君”は「ただ生きる」ことなんて望まないだろう。そう考えてしまう“僕”は、そうして「ただ生きる」自分のことを邪だと思ってしまうんでしょう。

 

最後に

この記事の【全体の解釈】のところの最後に、そんな対極の存在であるような“君”と“僕”は、実はよく似ている存在、あるいはもう同じ1つのものではないかと妄想解釈している。と書きました。

この歌詞の物語を、“僕”から離れて“君”の視点で考えてみます。
すると、「邪に」と“僕”が評価している生き方は、“君”としてはとても憧れる、自分にはできない生き方だと感じるはずです。
残りの人生がもう短い自分には、例え暗がりでもひまわりのように咲き誇っていないといけない。そうあるべきだと思って生きているんです。つまり、自分を偽って生きている。本当は弱い自分も怖がる自分もいるのに、それを見せられない。見せると自分が持たないと思うのでしょう。

その点、“僕”の生き方は“僕”を偽っていない。「邪だ」とは思いながらも、生きたいように生きている。“君”からすればそこに憧れるのです。

この2人は、対極の存在に見えて、実は「憧れる」側と「憧れられる」側の関係をお互いに持ち合ってる、2つで1つの存在なのです。

 

さて、今回もだいぶ妄想が突っ走りました。が、僕にとってはこんな世界観を持ってこの曲を、歌詞を味わっています。物事は見方次第。音楽も、見方次第。

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