我が子が産まれて思うこと。人は誰もそこにいるだけで祝福される存在なんだ

先日、待望の我が子が無事僕たちのもとに産まれてきてくれました!この喜びはなんと表現したらピッタリくるだろう。もうもう、可愛く仕方がありません。そんな我が子を逆に焦点が合わなくなるくらいの至近距離で見ていて、ふと気づいたことがあります。

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うちの子の可愛さと言ったらですね、ふえふえって泣くだけで、ミルクをくいくい飲んでいるだけで、親の僕たちだけでなく、その親やそのまた親までメロメロで幸せいっぱいにしてしまうんです。

病院で産まれて来てくれたその日から、僕は妻といっしょに、そんなふうに我が子を見てメロメロしていく人たちをたくさん目の当たりにしました。

あんなにみんなが我が子を見て笑顔になって帰っていく。僕たちにも祝福の言葉をくれる。ただ我が子が、小さなベッドのうえでふえふえ言うだけで。

 

 

と、ここまで読んで「そんなの当たり前のことだ」と、あなたは思いませんか?

そう、これは当たり前のことなんです。僕が気づいたというのはこのことでした。

赤ちゃんが産まれれば、当たり前に祝福される。可愛いと褒めてくれる。例えおむつにうんちをしても、です。

そして僕たちは一人の例外もなくかつて赤ちゃんだったのです。ふえふえ言って泣くだけで、ミルクをくいくい飲むだけで、おむつにうんちをするだけで、祝福される存在だったのです。

 

 

そんなことにふわりと気づいて、これは誰かに教えなきゃと思い、でも恥ずかして結局誰に言えず、こうしてブログに書いている次第です。ブログをやっていてよかったな~。

 

しかし、いつから人はそこにいるだけでは祝福されなくなるのでしょう。この無償の祝福を、僕たちは日常生活で受け取ることって、あまりありません。てか、僕にいたっては全然ありません。

中小企業ではありますが、きちんと仕事に就いていても祝福してくれません。むしろ失敗したり誰かに迷惑をかけたら怒られます。

高校野球でレギュラーになっても、相手チームに打ち込まれればピッチャーは責められます。

いやいや、中学校、小学校でも、周りのみんなより成績が悪いと親は渋い顔をしていました。

 

 

日常に流され、人に流され毎日を生きていると、自分の存在てちっぽけに見えてきてしまいます。そんなとき、その流れにちょっとだけ抵抗して立ち止まって、自分が赤ちゃんだったときのことを思い出しましょう。

「思い出せんよそんなもん!」とツッコまずに、思い出せなきゃ信じてみましょう。小さなベッドのうえで、僕たちと同い年くらいだったお父さんとお母さん、あるいはそれ以上の人たちに囲まれ、無償の祝福を受けていたあのころを。

 

 

人は誰も、そこにいるだけで祝福される存在。本格的に寒くなってきました。みなさん風邪など引かぬよう、ご自愛ください。

風邪の病み上がりのかずでした。